徴(しるし)

The sign of life

The sign of life

ひさしぶりにこの写真集を開いてみました。
そこにはやっぱり圧倒的な静謐さと細部までの詳細さが書き込まれた情報量があって、清野さんは僕にとっていつまでもマエストロ的存在なんだと思った。


画面上の全ての地点にピントが合ってることって、日常生活ではないよね。
そのせいか見ていると次第に頭がチリチリしてくる。視覚情報の処理に脳が追いつかない。それからその後に僕が写真から感じたのは世界の中の傷とか、もっと言うと裂け目のようなものだったと思う。でも僕はそこを通じて作品の世界と通じ合うことができるし、作者と繋がることができるし、もっと言うと世界そのものと触れ合うことができる。

ちょっとした全能感を覚え、そしてそんなふうなことを感じたと思う。


至るところで 心を集めよ 立っていよ

至るところで 心を集めよ 立っていよ

そして注文していたこの本が今日届きました。*1
35mmってやっぱり生々しいなあっていうのがまず思ったこと。
そしてやっぱりアウトフォーカスを使ってるのが驚きでした。

見ていて胸が熱くなるというのと、それから作者はどんな思いでこれを撮ったのだろうと思いました。そう、多分35mmだと視線が出るんだと思います。今書いていて思った。

パウル・ツェランの詩が引用されています。

EYEGLANCES, whose winks,
no brightness sleeps.
Undebecome, everywhere,
gather yourself,
stand.

− "EYEGLANCES" by Paul Celan. Translated from German by Pierre Joris

ちょっとしたオブセッションっぽくも読めるし、写真を撮ることとも読めるし。実際にはきれいに分けられるものではなく、両方なんだと思うけど。最後の Stand. なんか殆ど Shoot! って気がする*2。目はいつだって探し続ける。とても写真家らしい言葉だと思いました。

そして作者の透徹した美意識を突き破って傷がそこかしこに顔を出す。でもそこが入り口なんだ。そこがチャネルなんだと思う。ラージフォーマットの圧倒的なアドバンテージを捨ててまで作者が得たかったもの、捨て身のアグレッシブさという気もするけれど、今はそれを考えつつじっとして、これらの写真を見ていることしか僕にはできない。



付記です。



写真集「至るところで 心を集めよ 立っていよ」の紹介が2009/10/18の読売新聞読書欄に載っていて、僕は迂闊ながら初めて、新刊が出たことと、清野さんの訃報を知った。


清野さんにはお会いしたことあります。というか、2000年末〜2001年の初め頃、横浜美術館で「現代の写真II 反記憶展」というのが開催されて、関連で清野さんが講師で、見ることについてのワークショップが開かれて、参加したんだった。
清野さんはいつもモノトーンの服を着ていて颯爽としているかたでした。


当時自分がウエブに載せていた文章を引用してみる。かなり浮かれている文章だが、まあ、若気の至りってことでご容赦を。

見ることとは何か -写真を契機として
横浜美術館の講座。講師は清野賀子氏。第1回めに行ってきた。あと5回、ヨコハマにかよいます。
目的的(Objective)ではない写真というのがある。例えば花が写っていても、けっして花をとることが目的ではないんだろうなという感じの写真。風景や樹木でもそう。そういうのがいったいなんなんだろうということに、とても興味があります。
で見ることとはなにか、とそのものずばりのタイトルではないですか。
受講者は20〜60歳ぐらいの20人くらい。そういう場に出かけていくのも自分らしくない感じだが。
会場は版画室。インクのにおいが高校の美術室みたいでなつかしい。


今日も横浜みなとみらいに。なんか学校みたいで楽しい。


横浜美術館での講座3回め
今日は5人くらいずつのグループに分かれて、おのおのもってきた写真なんぞ見つつディスカッション、じゃなくて雑談。なんかね、仕事以外で人と話す機会ってないから、こういうのって不思議な感じです。


横浜美術館での講座4回め
いろんな写真集をみたり、グループで性格診断のようなことをした。
あと、グループで人の撮った写真を見たり。え-どんなカメラつかってるんですか?みたいな会話をしてました。楽しい。


横浜美術館での講座5回め
意識について、の精神分析学のようなのと、フェンデルクライス身体訓練法なるテキストの講義とか。後者までいくと遠いところにきてしまった気もしたんだが、意識の状態は身体に深く関わっているらしい。んで腕を頭の上に伸ばし、身体を時計方向、反時計方向にのばす例の運動を、参加者で向いあってやってみましょう。右と左とでからだの伸びやすさが違いますね。みたいなことをした。これはなんだっけ、利き手によって普段から身体の重心がかたよっているからだとか。今回で講義は終わり。

で先生がおっしゃってたのは、普段の生活では仕事はいうまでもなく、目に入るあらゆるものが経済優先となっているけれど、写真とか芸術とよばれるものからは、経済だけではなくもっと抽象的な世界だってあるということがわかる。それを現実にもって帰ることで、個々の現実をもっと豊かにすることができるということ。
ほんとそう思います。


横浜美術館での講座最終回
最終回には、空のひろい場所に出かけます、と案内にあった。行き先は山梨県八ヶ岳のふもと。風がきもちいい。空がぬけていて。講師の清野さんのお知り合いのギャラリーでご飯をいただいた後、縄文時代の住居跡にいき、空を眺めた。それから、移動して、土器のかけらを探した。そのあと戻り、おいしいコーヒーをいただきました。清野さんは、「土器を探したりしたあと、おいしいコーヒーをいただいたりするのも、広い意味で見るということ、撮るということにかかわっている」とおっしゃっていた。うまく言えないけれどたぶんこころの問題なのだと思う。
縄文土器...
今思ってるのは、カメラをもっていると思いもしなかったところに(カメラが)つれていってくれるということ。まるで転がる石のように。いったいここはどこ?と思ったりするが、しかし普通に過ごしていたらまず、自分の人生のなかではいかないよなあ。


イモジン・カニンガムとか、ダイアン・アーバスとか、エグルストンとか、清野さんから知ったのだった。講座はかなり楽しかったのを思い出します。


ご冥福をお祈り致します。

*1:出版社に注文すると、ポスターがもらえます。

*2:撃つ=撮る